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当社は1899年に創業し、本年120周年を迎えさせて頂きました。創業精神「企業は社会の公器なり」を守り続けていきます。
“農業は食文化を守るだけではなく、日本の文化を守る”として熱い情熱を受け継ぎ培ってきた企業風土、誠実さをもって社員一同、より一層農業へのお役立ちのため行動を起こします。
農業はこれから大きな変化期にあります。AI活用やスマート農業・精密農業・環境重視への転換が進む中、当社は蓄積してきた膨大な情報との融合を図り続けます。新旧の力の融合、チーム力を高めお役に立ちます。
当社グループ企業は北海道を愛し、農業を愛し、日本の食料を守る強い意志と行動を継続します。
- 日時:2019年6月13日(木)
- 場所:札幌パークホテル
「日の丸産業社120周年記念 講演会」を開催。お取引様や日の丸OBの方々など約250名にご来場いただきました。講演会終了後は日の丸産業社と日の丸会の共催による懇親会を開き、日頃の感謝の気持ちを伝えました。
120周年記念講演
長所を活かして個性を伸ばせ
〜梨田流『自己の組織の育成法』〜
講師 梨田 昌孝 氏
大阪近鉄バファローズ、北海道日本ハムファイターズ、東北楽天イーグルスの3球団で指揮官を務め、現在は野球解説者、野球評論家として活躍する梨田昌孝氏を講師に迎え、記念講演会を開催しました。プロ野球選手になるという夢を叶えるために、野球に明け暮れた中学・高校時代の話。新聞配達のアルバイト中にかけられた労いの言葉に心が救われ、言葉一つで誰かを勇気づけることができると知った学生時代のエピソード。弱点を逆手にとって“こんにゃく打法”を編み出した現役時代、選手の長所に合わせた戦略でチームを優勝に導いた監督時代の話などを、ユーモアたっぷりにお話しいただきました。
250名近いお客様をお迎えしました
代表取締役社長・千葉哲也が120周年を迎えられたことへの感謝を述べました。120周年記念ロゴに込めた想いも紹介しました
日産化学株式会社 営業企画部部長の小松英司様よりご祝辞を賜りました
株式会社北洋銀行 取締役本店長の藤池英樹様よりご祝辞を賜りました
代表取締役常務・井上官がご来場いただいた皆様にお礼を述べ、記念講演は終了しました
場所を移し、新緑が美しいガーデンにて懇親会がスタート
日の丸会の会長を務める株式会社辻野商店の辻野浩様よりご挨拶をいただきました
三菱商事株式会社 北海道支社長の藤原義久様の音頭で乾杯しました
和・洋・中、各ジャンルの料理をご用意。ゲストの皆様に楽しいひとときを過ごしていただきました
梨田氏のサインボール・サイン色紙が当たる抽選会を実施。当選者の名前が読み上げられるたび、会場から歓声が上がりました
三井物産株式会社 北海道支社長の能登谷淳様に締めのご挨拶をいただきました
ますますの発展を祈念して三本締めで締めくくりました
日の丸産業社の創業者・松本菊次郎は、北海道農業の未来のために数々の試みに挑戦しました。
松本菊次郎の人物像、これまでの業績をご紹介します。(全10話)
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STORY
戦時の苦難
昭和12(1937)年、日華事変勃発。
昭和16(1941)年、太平洋戦争始まる。
世は一転して、戦時色に塗りつぶされていく。重要物資はすべて統制の時代に入っていく。戦時統制とは商人にとって商う糧を失うということであった。日の丸は創業以来最大の苦難の時代を迎える。
昭和11(1936)年 主要肥料業統制法成立
昭和12(1937)年 臨時肥料配給統制法公布、同法による硫安販売会社設立 全国肥料商業組合連合会設立
昭和13(1938)年 米穀・肥料等の配給統制開始、国家総動員法公布、臨時肥料配給統制法による燐酸肥料株式会社設立、加里協議会設立、政府の統制強化方針に協力
昭和14(1939)年 肥料配給統制規則制定、肥料配給割当制実施
昭和15(1940)年 肥料消費調整に関する告示(肥料施用の順位を定める)日本肥料株式会社法公布、同社設立無機質肥料の一手買取、配給統制を行う。
業界を吹き荒れる戦争の嵐の中で、鎮目務は遂に病に倒れた。昭和15(1940)年、再起不能であった。
戦時一色の中で、“商店”という名称はふさわしくない、と菊次郎は考える。産業の振興へ貢献することを目的とする、この店の理念に適合した名前を模索した菊次郎は当時の第一銀行(現:みずほ銀)支店長の助言を容れて、“日の丸商店”から“日の丸産業社”へ社名変更を決意する。
昭和18(1943)年 農業団体法公布 産組中央金庫、農林中央金庫と改称
北連業務閉鎖、代わって北海道農業会設立
昭和19(1944)年 肥料配給機構の整備強化に関する閣議決定
全国肥料商業組合連合会解散
日本の肥料商の断末魔であった。統制肥料の配給はこの閣議決定によって、農業会に一元化されることとなったからである。問屋にも小売商にも、廃業が相次いだ。日の丸は歯を食いしばって耐える。わずかにながれてくる統制外の商品も、糊口をしのぐには足りない。かつての日の丸を支えた若者たちは、次々と戦争に動員され、散っていった。菊次郎に従うもの、わずかに5名であった。
この頃、菊次郎は北海道庁に呼ばれる。農業会に一元化された肥料配給を円滑にすすめために、北海道農業会に入ってはもらえないか。松本個人の身分と将来は保証する、という言葉であった。菊次郎は考える。流通の一元化は時の流れ、現在は止むを得ないにしても需要家のために本来は多元であるべきである。松本も日の丸も個人ではない。来るべき日に、自由を望む農家の為に、また日の丸と共に働いた200余の小売店の将来のために、日の丸の灯は消さぬ。市町村の農業団体もまた、自由な購入を望む日は必ずくる。菊次郎はこの申し出を断った。
昭和20(1945)年8月、戦争終結。
昭和22(1947)年4月、肥料配給公団令が交付され、配給統制の一部変更によって配給指定業者として肥料商の復活が認められる。菊次郎はただちに全道の小売業者に呼びかけ再起をうながす。日の丸の社員もまた、いちはやく指定業者として登録指定を受けるべく、日夜をわかたず札幌近郊の農家を訪ね回っては登録契約の取り付けに励んだ。
昭和25(1950)年、石油、肥料、農機具、農薬など相次いで統制が撤廃される。日の丸は直ちに本来の卸売業務を再開する。待ちに待った自由な商売の日であった。しかし流通一元化によってもたらされた、実績ゼロからの再出発であった。
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STORY
石油の販売
動力農機の販売は次第に軌道にのりつつあった。農業機械が普及されるとき、当然そこに必要となるのは、燃料油、潤滑油などの石油類である。日の丸商店の石油販売はこの様にしてはじまる。提携先は三菱商事石油部であった。この取引は、のちに同部が発展して三菱石油(株)が設立されるに及び、引き継がれて今日に及ぶこととなる。
日の丸商店の石油販売開始は、大正15年(1926年)札幌市に現存する石油販売業者の中では、最古の店とされている。昭和初年の頃、三菱商事の輸入するグリースを、日の丸特製の小缶に詰め替えて、農業機械と共に売り歩く日の丸の姿は人目をひいた。
昭和41年(1966年)8月創業当時の真駒内給油所
戦後急速に進むモータリゼーションの中で、また家庭暖房様式の変化の中で、市内給油所を開設して急成長する札幌の市民に奉仕したい。昭和41年(1966年)8月、新しく開発された札幌市真駒内の道営団地の中央に、日の丸産業社は第1号の給油所を開設する。三菱石油真駒内給油所である。続いて昭和44年(1969年)12月、桑園に第2号給油所、三菱石油桑園給油所を開設。第3号は昭和46年(1971年)11月、間もなく迎える札幌オリンピックを直前にして、オリンピック・メインスタジアムの建設された真駒内公園の入り口に、三菱石油藻岩橋給油所(現在は閉鎖)として開設された。
昭和44年(1969年)12月オープン当時の桑園給油所
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STORY
ザイフェルトとの出会い
東京での会社設立に入る以前、北大の旧師から脩三(二代目菊次郎)は一通の手紙をもらう。第一次世界大戦のとき青島(チンタオ)で捕虜となったドイツ人の一人が、今朝鮮の農場で働いている。園芸学校出身の農業技師で、北海道の農業振興に役立つものを持っていると思うが、世話してみる考えはないかという内容であった。ただちに返書をしたため、旅費を送って札幌に迎え入れたドイツ人技師は、名前をアルベルト・リヒャルト・ザイフェルトといった。日の丸商店の二階座敷に寝起きし、怪しげな手つきでしか箸を使えない若い異国人を混えた、当時としては珍しい生活がこの後しばらく続く。
北海道はケプロンをはじめとするアメリカ人技師を顧問に迎え、専らアメリカの農業技術を手本として明治政府によって開拓が進められてきている。しかし同程度の緯度にあり、またスケール的にも似通った規模で営まれている先進農業国ドイツには、アメリカと異なった学ぶべき点があるのではなかろうか。その一端でも窺い知ることによって、北海道の今後に役立っていくことができたら、これが脩三(二代目菊次郎)の願いだった。片言の日本語と、一方はほとんど筆談にしか使えないドイツ語とで、ザイフェルトと脩三と若い二人の、短かったがしかし深い交流の時期が生まれた。
ある時ザイフェルトは言う。日本で種子の消毒はどうしているのかと。奇妙な言葉であった塩水撰(種子を塩水に漬けて沈んだ重い種子だけを選んで使う技術)程度しか知らなかったからである。彼は教える。植物の病気は種子について伝染するものが多い。種子について伝染するものが多い。種子を薬剤消毒することによってこれを防げると。直ちに脩三の依頼によってザイフェルトは祖国へ手紙を書く。取り寄せられた薬は、バイエル社のウスプルンであった。大正11(1922)年のことである。今日では全くの常識となっている種子消毒の技術が、北海道の産業に導入された最初である。さらにまた、確認はされていないが、この後50年間、一貫して種子消毒の基準薬剤とされ続けた“ウスプルン”が、また“バイエル社の農薬”が、あるいは“有機合成農薬”そのものが、日本に導入された最初ではなかろうかとも言われている。
ちなみに、ザイフェルトと脩三が残した事蹟のなかで興味ある問題が更に二つある。
当時珍妙な事件が起きた。揺藍期にあった道内のビート栽培の中で、商社の輸入したビートの種子が植えて見たらシュガービートでなくて家畜飼料用ビートであったというのである。ザイフェルトは不審な顔つきでいう。どうして自分で採取しなかったのかと。脩三の進言で北海道庁は、ザイフェルトを招いてビートの採種を習うこととなった。北海道の農業の中にビートの採種技術の向上に大きな足跡を残した。これはザイフェルトの功績である。
また脩三はザイフェルトに聞く。ドイツの農業の中で一番収益の高い作物は何かと。答えられたものは“アスパラガス”であった。この未知の作物の種子もまた、すぐにドイツから取り寄せられた。ザイフェルトの指導でこの種子は、日の丸農場の一角に栽培が開始される。大正11(1922)年のことであった。北海道におけるアスパラガス耕作の発祥は、公式には岩内町下田喜久三博士、大正11年とされている。全く源を異にする二つのアスパラガス栽培が同じ年にはじめられたことは、奇しき因縁といえようか。
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STORY
トラクターの導入と日の丸農場
初代菊次郎は思うのである。北海道の農業は耕作規模が大きい。それなのに狭小な本州府県の耕作と同じに鍬、鋤、畜耕に頼るのはおかしいと。北海道の農業の合理化を求め続ける菊次郎は、かくて先進国アメリカの機械化農業の導入を志すに到る。
大正6年(1917年)日の丸商店は米国ラウソン社より、ローソントラクター、アルファ石油発動機などを輸入、販売に踏み切った。後にこれは、米国インターナショナル・ハーベスター社の各種農業機械、デラバル社のミルクセパレーターなどの製酪機械などにまで拡がった。これは北海道のみならず、日本の農業に内燃式石油発動機が導入された最初とされている。(農林省編 日本農業発達史)
これより先、明治末年、菊次郎は札幌郡札幌村字烈々布(現:札幌市東区栄町地区)に浅羽靖氏(元札幌区長、北海学園の創始者)の所有する農地約250ヘクタールを譲り受け、創成川の水利を利用して造田するなど自ら農場経営に乗り出して“日の丸農場”と名付けた。次々と導入される肥料、動力農機具を広く普及するための実験農場として、また実物教育の場として、この後、日の丸農場は大きな役割を果たしていくこととなる。
造田直後の水田は当然の姿でもあったのであろうか“日の丸農場の米は犬も食わない”と評されて、菊次郎が悔しがったと伝えられる日の丸農場経営は、太平洋戦争後、昭和21年(1946年)マッカーサー司令部の農地改革指令に至るまで約40年間続く。農場の一角に開拓以前の原始林をそのままに残し抜いてきたその名残は、現在、“日の丸公園”(現:札幌市東区北41条東11丁目)として札幌市に引き継がれている。
動力農機の普及にかける菊次郎の理想を承けた脩三は、この面に全力を傾注する。大正10年頃は、時あたかも第一次世界大戦の直後で、農村に労働力は不足し日雇い賃金の高騰が急激に深刻化して、動力農機に対する農民の要求が高まりつつある時代であった。たまたま、農商務省農事試験場技師、広部達三氏の推薦によって、農業労働力の不足に悩む岡山県に日の丸の手でアルファ石油発動機が納入されるという事態が起きた。これを契機として脩三は、農業用石油発動機の全国普及を志すに至る。
同じ頃アルファエンジンは、農商務省における農業用石油発動機の比較試験で、優秀な成績を示し、甲種指定の折紙をつけられるという快事が続く。力を得た脩三は、菊次郎とはかって、大正11年(1922年)、東京京橋区八官町に日米動力農具株式会社を設立する。もとより、当時地方地方に開発されつつあった脱穀機、籾摺機などの原動力として、アルファエンジンを全国府県に普及推進することが目的であった。
当時その足跡は、関東・東北はもとより、遠く関西・四国・九州に及ぶ。日本ではじめての動力付農業機械を担って、脩三の全国行脚は苦しいものであった。水利の悪い高台地への揚水に、石油発動機が役に立つと示唆されて訪れた秋田県庁で、脩三を待っていたものは動力農機などは農民の若者を堕落させるものという一言であったという。しかし岡山県を訪れたとき、感謝の言葉と共に案内された農家の屋敷内に、先に納入した石油発動機がピカピカに磨き上げられ、特製のケースまで被せられて大切に扱われている姿に接したときは、さすがに涙にくれる情熱の脩三であった。
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STORY
二代目松本菊次郎
二代目松本菊次郎は、幼名篠崎脩三、千葉県長生郡新治村字下太田(現:長生郡本納町下太田)に生まれた。明治27(1984年)10月。父宇吉、母りんの4男1女の3男であった。
県立千葉中学を経て北大予科に学び、進んで農学部畜産学科で畜産製造学を専攻した。大正8年(1919年)卒業後、一時、横浜市茂木合名会社に入って、満洲羊毛の輸入に従事したが、のち、旧師の推薦によって北大農学部に戻って講師を務めた。
この頃、北大の里正義教授(初代菊次郎と同郷、三重県出身)の紹介で、篠崎脩三は松本菊次郎と相識ることとなる。北海道の産業振興にかける菊次郎のたくましい情熱に共感した脩三は、やがて菊次郎の片腕となって協力することを決意して日の丸商店の人となる。大正10年(1921年)、27歳のときである。さらに翌大正11年(1922年)春には、請われて菊次郎の長女芳子と結婚、その後継者としての道に入った。
昭和3年(1938年)初代菊次郎は病の床にたおれた。胃癌であった。
これより先、初代菊次郎の二女梅子は、鎮目務に嫁している。務は東京商大(現一橋大)の出身、鈴木商店に勤務して貿易に従事していた。昭和2年、金融恐慌の中で鈴木商店の崩壊を見るに及び、翌年昭和3年(1928年)札幌に移って菊次郎、修三を扶けることとなる。
菊次郎の病臥によって修三も、東京の日米動力農具㈱を撤収して札幌に戻る。同社の業務の全ては、日の丸商店に吸収された。
昭和4年(1929年)9月19日、初代菊次郎病歿。享年62歳。脩三は直ちに二代目松本菊次郎を襲名、経営の一切を継承した。35歳であった。
二代目菊次郎が日の丸の経営を引き継いでから数年後の昭和13(1938)年に入ってから、昭和43(1968)年までの30年間に渡り、菊次郎は全国肥料商組合などの組合の会長を務め上げることとなる。その30年のなかで菊次郎昭和38(1963)年6月には全肥商連を中心とする肥料流通指導の功により農林大臣表彰を、昭和39(1964)年11月には多年肥料商として高度化成の普及に努めた功により、藍綬褒章を、更に昭和41(1966)年4月には多年農業に尽力したことにより勲五等双光旭日章を受章した。
昭和52年(1977年)8月9日、二代目松本菊次郎病没。享年82歳。二代目菊次郎は質実にて厳正、公正無私を旨とし、己の利害を超越してまさに信念の実行に徹しきった生涯であった。寒冷地北海道における農業の確立を念願とし、常に学界、業界に広く知識を求める学究的態度、また何事もまずはお客様である農家の実情に学べ、を信条として貫かれ、培われた識見は、道内はもちろん全国の肥料、農薬、計量機器関連業界人への強い説得力となり、その指導力は極めて高いものがあったとされ、彼の死によって関連業界は得難い指導者を失うこととなったのである。二代目菊次郎もまた初代菊次郎が創った菩提寺の札幌市円山端龍寺に葬られている。
2
STORY
日露戦争の頃
明治37年(1904年)2月露戦争始まる。
戦争によって北海道と本州を結ぶ貨物輸送は混乱に陥ることになる。ウラジオストクに根拠を置くロシア艦隊が、海上輸送の破壊を狙って日本近海に出没跳梁したためである。
開業後数年を経て、日の丸商店の肥料販売は漸く軌道にのりつつあった。道内に同業者も生まれてきていた。しかし海上輸送の危険から、肥料の導入は壮絶の運命を免れ得ないところであった。
バルチック艦隊
根拠地に集結した日本艦隊
菊次郎は敢えてこの壁に挑んだ。創業以来燃やし続けてきた北海道農業への情熱が、38歳の若い店主をこの無謀ともいえる危険な行動に駆り立てたのだろう。しかしそれでもなお、船が大阪の港を出た後の心痛は計り知れぬものがあったという。津軽海峡にさしかかろうかと思われる頃、再びロシア艦隊出現のニュースが流れた時、菊次郎は終日屋根の上に寝そべって天を仰いで嘆息の日々であったと伝えられる。船はしかし、幸い函館港に逃げ込んで難を逃れていた。
函館工場
このあと、日の丸商店の業績は順次進展の途を辿った。明治40年(1907年)、函館に北海道人造肥料(株)が設立される。北海道内におけるはじめての過リン酸石灰製造工場であった。菊次郎はこの企画にも積極的に参加する。この会社は、現在の北海道日産化学(株)函館工場の基となった。菊次郎の弟、松本伸吉は早くに故郷をでて、兄を扶けていた(明治34~35年頃)。つぎの弟、福地三郎も明治41年(1907年)、菊次郎の甥、広岡久吉も大正3年4月(1914年)来道して戦列に加わった。
明治末期の頃の社員
大正5年(1914年)の当時、日の丸商店の特約関係は、大日本人造肥料会社、硫曹肥料の各北海道代理店の他、小樽油製会社代理店、日本電気化学工業会社特約店、釧路港鈴木水産工場特約店、兵庫山川印大豆肥料特約店などであったという。(金子群平編 北海道銀行会社大商店辞書 1916)
1
STORY
松本菊次郎と日の丸商店
日の丸商店の創業者、松本菊次郎は慶応3(1867)年、現在の三重県名張市上比奈知の農家に生まれた。三重県立中学(後の県立津一中)を卒業後、自立の志を抱いて大阪の大阪毎日新聞の記者生活に入る。政争の気に満ちた菊次郎は、時にオーストラリア大陸へ雄飛の夢も持ったが、中学時代の恩師に開拓後日もなお浅い北海道の将来性を諭され、志を北海道の地に定めたといわれる。
やがて菊次郎は大阪を離れ、東京で下足番や書生生活で路銀を稼ぎつつ明治23(1890)年、菊次郎が23歳の時、目的の北海道に足を踏み入れた。はじめは函館の北海道共生商会に7年間勤め、店主・遠藤吉平のもとで商いの道を習った。
目的の地を定めた菊次郎は31歳のころ、ひとまず帰郷し、中学時代の親友福地銭吉の妹つぎと結婚、新妻を伴って再び北海道に戻った。
そして明治32年(1899年)2月15日、松本菊次郎と妻つぎは札幌に日の丸商店を創業しました。開業を前にして2月11日、当時の紀元節を祝って戸ごとに掲げられた国旗を仰いで、翻然として名付けられたと伝えられるこの“日の丸”の名は、以来一貫して国家・社会への貢献を願って歩み続けるこの企業の基本理念を定めたものでもありました。
菊次郎が渡道した当時、まだ北海道ではいわゆる焼畑式農業が行われていました。これを見て開拓初期とはいえこれがやむを得ない農耕のすがたなのかと常に疑問を抱いており、そこから化学肥料の導入を考えました。このことを当時の北大を始め、様々な識者に尋ねても時期尚早という意見がほとんどでしたが、それでも菊次郎は北海道農業の未来のためには必要という思いから化学肥料の導入を決めました。菊次郎は、自身の蓄財の一切を過リン酸石灰の送荷を依頼する手紙と共に大阪硫曹会社(現サンアグロ)へ送りました。到着した肥料を小袋に詰め替えたものを背にして、菊次郎は農家を一軒一軒説いてまわりました。春から夏へ、つぎの毎日は質屋通いの連続であったそうです。秋になって、収穫物を携えて喜色満面に訪ねてくれた農家の感謝の言葉を耳にしながら、二人の心中を去来するものは何であっただろうか。北海道の土に化学肥料が初めて売り込まれた日の姿であった。
その後、記録によれば明治33年には試験の結果、畑だけでなく水田にも有効であることがわかり、明治35年~36年にかけて急速に普及していったことが記述されています。日の丸商店の創業は、かくて北海道における化学肥料販売の最初であり、北海道の土に意識的に投入された最初であるとされています。
今後も日の丸のことがわかる
コンテンツを公開予定です