松本菊次郎と日の丸商店
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STORY
松本菊次郎と日の丸商店

松本夫妻と吉田善太郎氏
日の丸商店の創業者、松本菊次郎は慶応3(1867)年、現在の三重県名張市上比奈知の農家に生まれた。三重県立中学(後の県立津一中)を卒業後、自立の志を抱いて大阪の大阪毎日新聞の記者生活に入る。政争の気に満ちた菊次郎は、時にオーストラリア大陸へ雄飛の夢も持ったが、中学時代の恩師に開拓後日もなお浅い北海道の将来性を諭され、志を北海道の地に定めたといわれる。
やがて菊次郎は大阪を離れ、東京で下足番や書生生活で路銀を稼ぎつつ明治23(1890)年、菊次郎が23歳の時、目的の北海道に足を踏み入れた。はじめは函館の北海道共生商会に7年間勤め、店主・遠藤吉平のもとで商いの道を習った。
目的の地を定めた菊次郎は31歳のころ、ひとまず帰郷し、中学時代の親友福地銭吉の妹つぎと結婚、新妻を伴って再び北海道に戻った。

北海道農業発達史
そして明治32年(1899年)2月15日、松本菊次郎と妻つぎは札幌に日の丸商店を創業しました。開業を前にして2月11日、当時の紀元節を祝って戸ごとに掲げられた国旗を仰いで、翻然として名付けられたと伝えられるこの“日の丸”の名は、以来一貫して国家・社会への貢献を願って歩み続けるこの企業の基本理念を定めたものでもありました。
菊次郎が渡道した当時、まだ北海道ではいわゆる焼畑式農業が行われていました。これを見て開拓初期とはいえこれがやむを得ない農耕のすがたなのかと常に疑問を抱いており、そこから化学肥料の導入を考えました。このことを当時の北大を始め、様々な識者に尋ねても時期尚早という意見がほとんどでしたが、それでも菊次郎は北海道農業の未来のためには必要という思いから化学肥料の導入を決めました。菊次郎は、自身の蓄財の一切を過リン酸石灰の送荷を依頼する手紙と共に大阪硫曹会社(現サンアグロ)へ送りました。到着した肥料を小袋に詰め替えたものを背にして、菊次郎は農家を一軒一軒説いてまわりました。春から夏へ、つぎの毎日は質屋通いの連続であったそうです。秋になって、収穫物を携えて喜色満面に訪ねてくれた農家の感謝の言葉を耳にしながら、二人の心中を去来するものは何であっただろうか。北海道の土に化学肥料が初めて売り込まれた日の姿であった。
その後、記録によれば明治33年には試験の結果、畑だけでなく水田にも有効であることがわかり、明治35年~36年にかけて急速に普及していったことが記述されています。日の丸商店の創業は、かくて北海道における化学肥料販売の最初であり、北海道の土に意識的に投入された最初であるとされています。