二代目松本菊次郎
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STORY
二代目松本菊次郎
二代目松本菊次郎は、幼名篠崎脩三、千葉県長生郡新治村字下太田(現:長生郡本納町下太田)に生まれた。明治27(1984年)10月。父宇吉、母りんの4男1女の3男であった。
県立千葉中学を経て北大予科に学び、進んで農学部畜産学科で畜産製造学を専攻した。大正8年(1919年)卒業後、一時、横浜市茂木合名会社に入って、満洲羊毛の輸入に従事したが、のち、旧師の推薦によって北大農学部に戻って講師を務めた。
この頃、北大の里正義教授(初代菊次郎と同郷、三重県出身)の紹介で、篠崎脩三は松本菊次郎と相識ることとなる。北海道の産業振興にかける菊次郎のたくましい情熱に共感した脩三は、やがて菊次郎の片腕となって協力することを決意して日の丸商店の人となる。大正10年(1921年)、27歳のときである。さらに翌大正11年(1922年)春には、請われて菊次郎の長女芳子と結婚、その後継者としての道に入った。
昭和3年(1938年)初代菊次郎は病の床にたおれた。胃癌であった。
これより先、初代菊次郎の二女梅子は、鎮目務に嫁している。務は東京商大(現一橋大)の出身、鈴木商店に勤務して貿易に従事していた。昭和2年、金融恐慌の中で鈴木商店の崩壊を見るに及び、翌年昭和3年(1928年)札幌に移って菊次郎、修三を扶けることとなる。
菊次郎の病臥によって修三も、東京の日米動力農具㈱を撤収して札幌に戻る。同社の業務の全ては、日の丸商店に吸収された。
昭和4年(1929年)9月19日、初代菊次郎病歿。享年62歳。脩三は直ちに二代目松本菊次郎を襲名、経営の一切を継承した。35歳であった。
二代目菊次郎が日の丸の経営を引き継いでから数年後の昭和13(1938)年に入ってから、昭和43(1968)年までの30年間に渡り、菊次郎は全国肥料商組合などの組合の会長を務め上げることとなる。その30年のなかで菊次郎昭和38(1963)年6月には全肥商連を中心とする肥料流通指導の功により農林大臣表彰を、昭和39(1964)年11月には多年肥料商として高度化成の普及に努めた功により、藍綬褒章を、更に昭和41(1966)年4月には多年農業に尽力したことにより勲五等双光旭日章を受章した。
昭和52年(1977年)8月9日、二代目松本菊次郎病没。享年82歳。二代目菊次郎は質実にて厳正、公正無私を旨とし、己の利害を超越してまさに信念の実行に徹しきった生涯であった。寒冷地北海道における農業の確立を念願とし、常に学界、業界に広く知識を求める学究的態度、また何事もまずはお客様である農家の実情に学べ、を信条として貫かれ、培われた識見は、道内はもちろん全国の肥料、農薬、計量機器関連業界人への強い説得力となり、その指導力は極めて高いものがあったとされ、彼の死によって関連業界は得難い指導者を失うこととなったのである。二代目菊次郎もまた初代菊次郎が創った菩提寺の札幌市円山端龍寺に葬られている。