トラクターの導入と日の丸農場
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STORY
トラクターの導入と日の丸農場
初代菊次郎は思うのである。北海道の農業は耕作規模が大きい。それなのに狭小な本州府県の耕作と同じに鍬、鋤、畜耕に頼るのはおかしいと。北海道の農業の合理化を求め続ける菊次郎は、かくて先進国アメリカの機械化農業の導入を志すに到る。
大正6年(1917年)日の丸商店は米国ラウソン社より、ローソントラクター、アルファ石油発動機などを輸入、販売に踏み切った。後にこれは、米国インターナショナル・ハーベスター社の各種農業機械、デラバル社のミルクセパレーターなどの製酪機械などにまで拡がった。これは北海道のみならず、日本の農業に内燃式石油発動機が導入された最初とされている。(農林省編 日本農業発達史)
これより先、明治末年、菊次郎は札幌郡札幌村字烈々布(現:札幌市東区栄町地区)に浅羽靖氏(元札幌区長、北海学園の創始者)の所有する農地約250ヘクタールを譲り受け、創成川の水利を利用して造田するなど自ら農場経営に乗り出して“日の丸農場”と名付けた。次々と導入される肥料、動力農機具を広く普及するための実験農場として、また実物教育の場として、この後、日の丸農場は大きな役割を果たしていくこととなる。
造田直後の水田は当然の姿でもあったのであろうか“日の丸農場の米は犬も食わない”と評されて、菊次郎が悔しがったと伝えられる日の丸農場経営は、太平洋戦争後、昭和21年(1946年)マッカーサー司令部の農地改革指令に至るまで約40年間続く。農場の一角に開拓以前の原始林をそのままに残し抜いてきたその名残は、現在、“日の丸公園”(現:札幌市東区北41条東11丁目)として札幌市に引き継がれている。
動力農機の普及にかける菊次郎の理想を承けた脩三は、この面に全力を傾注する。大正10年頃は、時あたかも第一次世界大戦の直後で、農村に労働力は不足し日雇い賃金の高騰が急激に深刻化して、動力農機に対する農民の要求が高まりつつある時代であった。たまたま、農商務省農事試験場技師、広部達三氏の推薦によって、農業労働力の不足に悩む岡山県に日の丸の手でアルファ石油発動機が納入されるという事態が起きた。これを契機として脩三は、農業用石油発動機の全国普及を志すに至る。
同じ頃アルファエンジンは、農商務省における農業用石油発動機の比較試験で、優秀な成績を示し、甲種指定の折紙をつけられるという快事が続く。力を得た脩三は、菊次郎とはかって、大正11年(1922年)、東京京橋区八官町に日米動力農具株式会社を設立する。もとより、当時地方地方に開発されつつあった脱穀機、籾摺機などの原動力として、アルファエンジンを全国府県に普及推進することが目的であった。
当時その足跡は、関東・東北はもとより、遠く関西・四国・九州に及ぶ。日本ではじめての動力付農業機械を担って、脩三の全国行脚は苦しいものであった。水利の悪い高台地への揚水に、石油発動機が役に立つと示唆されて訪れた秋田県庁で、脩三を待っていたものは動力農機などは農民の若者を堕落させるものという一言であったという。しかし岡山県を訪れたとき、感謝の言葉と共に案内された農家の屋敷内に、先に納入した石油発動機がピカピカに磨き上げられ、特製のケースまで被せられて大切に扱われている姿に接したときは、さすがに涙にくれる情熱の脩三であった。