ザイフェルトとの出会い
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STORY
ザイフェルトとの出会い
東京での会社設立に入る以前、北大の旧師から脩三(二代目菊次郎)は一通の手紙をもらう。第一次世界大戦のとき青島(チンタオ)で捕虜となったドイツ人の一人が、今朝鮮の農場で働いている。園芸学校出身の農業技師で、北海道の農業振興に役立つものを持っていると思うが、世話してみる考えはないかという内容であった。ただちに返書をしたため、旅費を送って札幌に迎え入れたドイツ人技師は、名前をアルベルト・リヒャルト・ザイフェルトといった。日の丸商店の二階座敷に寝起きし、怪しげな手つきでしか箸を使えない若い異国人を混えた、当時としては珍しい生活がこの後しばらく続く。
北海道はケプロンをはじめとするアメリカ人技師を顧問に迎え、専らアメリカの農業技術を手本として明治政府によって開拓が進められてきている。しかし同程度の緯度にあり、またスケール的にも似通った規模で営まれている先進農業国ドイツには、アメリカと異なった学ぶべき点があるのではなかろうか。その一端でも窺い知ることによって、北海道の今後に役立っていくことができたら、これが脩三(二代目菊次郎)の願いだった。片言の日本語と、一方はほとんど筆談にしか使えないドイツ語とで、ザイフェルトと脩三と若い二人の、短かったがしかし深い交流の時期が生まれた。
ある時ザイフェルトは言う。日本で種子の消毒はどうしているのかと。奇妙な言葉であった塩水撰(種子を塩水に漬けて沈んだ重い種子だけを選んで使う技術)程度しか知らなかったからである。彼は教える。植物の病気は種子について伝染するものが多い。種子について伝染するものが多い。種子を薬剤消毒することによってこれを防げると。直ちに脩三の依頼によってザイフェルトは祖国へ手紙を書く。取り寄せられた薬は、バイエル社のウスプルンであった。大正11(1922)年のことである。今日では全くの常識となっている種子消毒の技術が、北海道の産業に導入された最初である。さらにまた、確認はされていないが、この後50年間、一貫して種子消毒の基準薬剤とされ続けた“ウスプルン”が、また“バイエル社の農薬”が、あるいは“有機合成農薬”そのものが、日本に導入された最初ではなかろうかとも言われている。
ちなみに、ザイフェルトと脩三が残した事蹟のなかで興味ある問題が更に二つある。
当時珍妙な事件が起きた。揺藍期にあった道内のビート栽培の中で、商社の輸入したビートの種子が植えて見たらシュガービートでなくて家畜飼料用ビートであったというのである。ザイフェルトは不審な顔つきでいう。どうして自分で採取しなかったのかと。脩三の進言で北海道庁は、ザイフェルトを招いてビートの採種を習うこととなった。北海道の農業の中にビートの採種技術の向上に大きな足跡を残した。これはザイフェルトの功績である。
また脩三はザイフェルトに聞く。ドイツの農業の中で一番収益の高い作物は何かと。答えられたものは“アスパラガス”であった。この未知の作物の種子もまた、すぐにドイツから取り寄せられた。ザイフェルトの指導でこの種子は、日の丸農場の一角に栽培が開始される。大正11(1922)年のことであった。北海道におけるアスパラガス耕作の発祥は、公式には岩内町下田喜久三博士、大正11年とされている。全く源を異にする二つのアスパラガス栽培が同じ年にはじめられたことは、奇しき因縁といえようか。