戦時の苦難
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STORY
戦時の苦難
昭和12(1937)年、日華事変勃発。
昭和16(1941)年、太平洋戦争始まる。
世は一転して、戦時色に塗りつぶされていく。重要物資はすべて統制の時代に入っていく。戦時統制とは商人にとって商う糧を失うということであった。日の丸は創業以来最大の苦難の時代を迎える。
昭和11(1936)年 主要肥料業統制法成立
昭和12(1937)年 臨時肥料配給統制法公布、同法による硫安販売会社設立 全国肥料商業組合連合会設立
昭和13(1938)年 米穀・肥料等の配給統制開始、国家総動員法公布、臨時肥料配給統制法による燐酸肥料株式会社設立、加里協議会設立、政府の統制強化方針に協力
昭和14(1939)年 肥料配給統制規則制定、肥料配給割当制実施
昭和15(1940)年 肥料消費調整に関する告示(肥料施用の順位を定める)日本肥料株式会社法公布、同社設立無機質肥料の一手買取、配給統制を行う。
業界を吹き荒れる戦争の嵐の中で、鎮目務は遂に病に倒れた。昭和15(1940)年、再起不能であった。
戦時一色の中で、“商店”という名称はふさわしくない、と菊次郎は考える。産業の振興へ貢献することを目的とする、この店の理念に適合した名前を模索した菊次郎は当時の第一銀行(現:みずほ銀)支店長の助言を容れて、“日の丸商店”から“日の丸産業社”へ社名変更を決意する。
昭和18(1943)年 農業団体法公布 産組中央金庫、農林中央金庫と改称
北連業務閉鎖、代わって北海道農業会設立
昭和19(1944)年 肥料配給機構の整備強化に関する閣議決定
全国肥料商業組合連合会解散
日本の肥料商の断末魔であった。統制肥料の配給はこの閣議決定によって、農業会に一元化されることとなったからである。問屋にも小売商にも、廃業が相次いだ。日の丸は歯を食いしばって耐える。わずかにながれてくる統制外の商品も、糊口をしのぐには足りない。かつての日の丸を支えた若者たちは、次々と戦争に動員され、散っていった。菊次郎に従うもの、わずかに5名であった。
この頃、菊次郎は北海道庁に呼ばれる。農業会に一元化された肥料配給を円滑にすすめために、北海道農業会に入ってはもらえないか。松本個人の身分と将来は保証する、という言葉であった。菊次郎は考える。流通の一元化は時の流れ、現在は止むを得ないにしても需要家のために本来は多元であるべきである。松本も日の丸も個人ではない。来るべき日に、自由を望む農家の為に、また日の丸と共に働いた200余の小売店の将来のために、日の丸の灯は消さぬ。市町村の農業団体もまた、自由な購入を望む日は必ずくる。菊次郎はこの申し出を断った。
昭和20(1945)年8月、戦争終結。
昭和22(1947)年4月、肥料配給公団令が交付され、配給統制の一部変更によって配給指定業者として肥料商の復活が認められる。菊次郎はただちに全道の小売業者に呼びかけ再起をうながす。日の丸の社員もまた、いちはやく指定業者として登録指定を受けるべく、日夜をわかたず札幌近郊の農家を訪ね回っては登録契約の取り付けに励んだ。
昭和25(1950)年、石油、肥料、農機具、農薬など相次いで統制が撤廃される。日の丸は直ちに本来の卸売業務を再開する。待ちに待った自由な商売の日であった。しかし流通一元化によってもたらされた、実績ゼロからの再出発であった。